【コラム1】「福島弁と韓国語」ー松谷基和先生ー

これから言語文化学科の先生によるコラムの連載をスタートすることになりました。言語と文化についての貴重なお話しをお届けしたいと思います。第1弾としては、韓国・朝鮮語を教えている松谷先生から「福島弁と韓国語」という原稿をいただきましたので、どうぞお聞きください。

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今からもう20数年前のことである。私は韓国の延世大学に交換留学生として1年間留学した。当時は韓流ブーム以前の時代であり、韓国に対する世間の関心は薄く、韓国に留学する学生も少なかった。ましてや、私の通っていた国際基督教大学(ICU)は英語教育が評判なこともあって人気の留学先は欧米であり、韓国を選ぶ学生は「変わり者」であった。また、韓国に留学する場合でも、現地では英語による科目履修が想定されており、韓国語の能力は選考基準に含まれていなかった。そもそも、当時は、ICUのカリキュラムに韓国語の科目は存在せず、留学前に韓国語を学ぼうにも大学では学ぶ機会すらなかったのである。

当時の私は、こうした英語さえできれば、英語圏でなくても留学できるという制度が英語中心主義の象徴のように思われ、現地語を学ばないまま留学することに抵抗を感じた。幸いなことにICUからそう遠くない所に「アジア・アフリカ語学院」という語学の専門学校があったため、そこに通うことで、私は初めて韓国語の学習の機会を得たのであるが、今日では第二外国語で韓国語を学べる大学が多数であり、まさに隔世の感がある。

ところで、私が当時、反発を覚えていたのは、実は英語中心主義ではなく、日本語の標準語中心主義であった。私は福島市で生まれ育ち、祖父母との会話量も多かったせいか、同世代の人間の中でも福島弁が得意な方であった。しかし、当時、東京の大学に進学する地元の高校生は、上京する前から福島弁を矯正するのが常であり、福島弁は都会では隠すべきものと考えられていた。私は標準語を習得しようとする人々の努力を全否定するつもりはなかったが、その理由が福島弁を話す奴は田舎臭くて「みったぐねえ(みっともない)」という自虐的な価値観にあることを知っており、そうした価値判断をする奴こそ「みったぐねえ」と反発心を燃やしていた。実際、私は大学進学後、キャンパスで見かけた「大九州言語会」という九州出身者による「方言飲み会」の存在に刺激されたこともあり、岩沼出身の友人と「奥州連合」なる看板を掲げて、東北人同士の「方言飲み会」の立ち上げ者となった。

こうした私の「母語」である福島弁へのこだわりは、その後、意外な形で私の韓国語習得を助けることになった。というのも、韓国語(正確には「ソウル標準語」)では、一般的に単語や文章にはアクセントや抑揚をつけずに平らに(フラットに)読むことが求められるのであるが、これが福島弁に似ており、何ら違和感を覚えなかったのである。

実際、これは言語学的にも裏付けられるようである。というのも、福島に限らず南東北(仙台も含む)は、言語学的分類調査によれば、いわゆる「無アクセント地帯」に属し、その特徴は、文字通り、単語にアクセントをつけず、抑揚のない平板型のイントネーションで話すこととされる。つまり、韓国語も南東北の方言もイントネーションの基礎が共通なのである。

それに加えて、私の観察では、「あつい」を「あづい」、「なめこ」を「なめご」、「かたち」を「かだぢ」と発音するように、二音節目以降の子音を濁音化させて発音する福島弁(南東北弁一般もそうであろう)のパターンも韓国語と同様である。例えば、韓国語の「行く」という単語はスペル上では「カタ」であるが、実際には「カダ」と二音節目の子音は濁音化させて発音するのである。要は「平板型アクセント」+「子音の濁音化」という発音上の規則が、二つとも韓国語と福島弁に共通しているのである。

私が留学して間もない頃、ある韓国語の先生から「私は長年、日本語母語者に韓国語を教えていますが、松谷さんは日本語母語者が苦手とするアクセントやイントネーションにほとんど問題を感じていないようですね。どうして、松谷さんだけ、そうなのか私には不思議です」と言われたことがある。その時は自分でもあまり意識しなかったのだが、後年、私と同様に福島弁の使い手である妹が韓国に留学した際にも、全く同じことを言われたという話を聞き、やはり、これは偶然ではなく、韓国語と福島弁の間には言語学的共通性があるためではないかとの思いが強まった。おそらく読者の中にも、韓国語を聞きながら何となく濁音が多く、どこか東北弁と近いと感じたり、逆に韓国人の話す日本語が何となく東北人の訛りのように聞こえたりした経験がおありではないだろうか?ぜひとも、本学で韓国語ないし言語学に興味を持つ学生には、このテーマについて本格的に探求して欲しいものである。

さて、近年、東北に限らず、どの地域でも日常生活から方言が失われ、イントネーションも標準化されつつあると聞く。私の思いとは別に、世の中は、益々、内には日本語中心主義、外には英語中心主義に流れていき、日本語と英語ができることが「バイリンガル」と称賛される風潮も強まって行くのであろう。しかし、私が思うに、方言と日本語を話せれば、これは立派な「バイリンガル」である。そして、こうしたバイリンガル感覚の持つ人の方が、実は他言語/多言語を学ぶ上で有利な面もあり得るのである。方言に囲まれて育ち、今でも多少は方言を操れる学生諸君に伝えたい。「君、方言を捨てたもうことなかれ」と。