[コラム4]私はどのようにドイツ語を学んできたか(門間俊明先生)

[コラム3]に続いて、門間先生によるドイツ語の話をもう少しお聞きしましょう。

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もう何十年も前の話になりますが、自分が大学でドイツ語を勉強し始めた時のことを書いてみたいと思います。
入学したのが文学部のドイツ文学科というところでしたので、とにかくまずはドイツ語を読めるようになることが最優先のカリキュラムでした。初級の文法が済むと、あとは文学作品やら評論文やら作品論やら、大量のテキストを与えられてひたすら辞書と格闘していた、という感じでしょうか。英語しか知らない当時の自分にとって、初めて出会うドイツ語の単語の発音や細かな文法規則に相当な違和感、あるいは新鮮な驚きを感じたはずなのですが、実際にはそんなことを意識する暇もなく、ドイツ語の大海原の中で溺れないように息をするのがやっとという状態でした。語学学習においては、気の利いた習得のコツや方法論よりは、単位時間あたりに接触する言葉の量と質こそが決定的だという、味気なくも冷厳な事実であります。
さて、これだけでは身も蓋もないので、当時心がけたことのうち、読者の皆さんにも参考になりそうなことを述べていみたいと思います。

ひとつは、独りよがりの思い込みや誤読に陥らないために、辞書を最大限活用して読み進めていくということ。改めて言うまでもない、ごく当たり前のことではありますが。当時の授業の形態は、毎回学生が授業の下調べをしていって、誰かが当てられて文章を訳読し、それに先生が解説を加えるというものでした(その意味では、今とほとんど変わりません)。不思議なもので、毎回課されたテキストには、必ず何カ所か初学者を惑わすトラップのような箇所があって、私自身も含めて、大抵の学生がそれに引っかかる。そのトラップに引っかかる理由は、思い込みや文法知識の不足ということもありますが、ほとんどの場合は辞書の下調べが不足しているケースでした。罠に引っかかっては転び、また引っかかっては転びという経験そのものが実は大変貴重で、今にして思えば、語学力の向上のみならず、読解力そのものを養う上でも大いに役に立ったと思っています。しかし、本質的に重要なのは、辞書を引くことを面倒がらず、そこに書かれた情報を最大限に利用しようという意識だと思います。最近の学生を見ていると、電子辞書が普及したせいでしょうか、辞書をくまなく調べるという習慣が身に付いていないように思われるので、なおさらその感を強くしています。
もうひとつは、ドイツ語の学習に、徹底的に英語の知識を活かすということ、あるいは絶えず英語との関連を考えながらドイツ語を学んでいくということ。言葉の歴史からすると、ドイツ語と英語は非常に近しい間柄にあって、語彙から文法のレベルまで似通った点がたくさんあるのです。
そうすることのメリットは、両者の絶えざる比較対照によって、ドイツ語の学習が容易になるのみならず、やがては英語の理解も深まっていくという相乗の効果が期待できる点です。たとえば、「前置詞」の定義がたとえ分からなくても、英語の前置詞の知識があれば、ドイツ語の前置詞を理解するのはさほど難しくはありません。一方ドイツ語の前置詞の知識から英語の前置詞を振り返ってみた場合、前置詞の目的語に人称代名詞がきたときに、どうして主格ではなく目的格になるのか(つまり、どうしてwith he ではなくてwith himになるのか)を類推するのは同様にそんなに困難なことではありません。(ドイツ語では前置詞毎に支配する名詞の格が決まっているのだから、英語の前置詞が人称代名詞の目的格を支配したって、それくらい許してあげましょう、ということ。)ことほど左様に、単語のレベルから文法のレベルまで、絶えず二つの言語を比較する習慣を身に付けていけば、まさに一挙両得の恩恵を得ることができるでしょう。
日の本に新しきことなし。外国語を学ぶコツや工夫はすでに言い尽くされていて、上記の提案に目新しいことは何もないのですが、私の実感に基づいたものであることは確かです。外国語を学ぼうとする皆さんの、少しでも参考になれば幸いです。

[コラム3]英語の後にドイツ語を習うということ(門間俊明先生)

 今日は、言語文化学科でドイツ語を教えている門間俊明先生から、外国語修得のためのアドバイスとして、ドイツ語についての話を聞きました。学生たちは高校生まで英語を6年以上勉強した後、本学科に入って本格的に独・仏・中・韓の第二外国語をしっかりと学ぶことになります。それでは、「英語の後にドイツ語を習うということ」はどういう意味を持つのでしょうか。

※       ※       ※

 語学の学習という観点から自分の学生時代を振り返ると、客観状況としては、人生の比較的早い段階に、英語、ドイツ語という二つの外国語を相前後してそこそこ集中的に学習したということになります。ここでは自分自身の経験に基づいて、最初は英語、その後にドイツ語という順序で学習したことのメリットについて考えてみたいと思います。

 言語の歴史からすると、ドイツ語と英語は非常に近しい間柄にあって、語彙から文法のレベルまで似通った点がたくさんあります。例えばdrink/trinken、come/kommen、apple/Apfel、garden/Gartenなど、単純に対応する語彙を並べていけば、枚挙にいとまがありません。ドイツ語を学び始めたばかりの私にとって、これらの対応関係を見つけて確認すること自体が単純に楽しかったのを覚えています。外国語学習の初期段階で新しく単語を覚えるというのは根気のいる困難な作業ですが、このように英語の後のドイツ語では、その困難さが大きく軽減されることになります。

 あるいは、文法の枠組みが似通っているというのも大きなメリットかもしれません。例えば、英語の関係代名詞を知らない人が全く白紙の状態でドイツ語の関係代名詞を習った場合、相当な困難を伴うでしょうが、英語の文法知識を持った人であれば、さほどでもないはずです。つまり、使われる単語がたとえ違っていても、文法全体の枠組みや個々の文法のロジックが共通しているので、ドイツ語の習得が容易になるのです。

 英語の後にドイツ語の習うことのメリットは他にもたくさんあるのですが、一般に中学高校で英語を勉強し、大学でそれ以外の外国語を勉強したという場合、二つ言語の学習経験は全く独立した別のものと思われがちです。しかし、実際には両者は大きく重なり合い、依存し合っているように思われます。ひょっとしたらその点に、大学で英語以外の外国語を学ぶ意味が隠されているのかもしれません

【新任教員紹介3】Ulrich FLICK 先生(ドイツ語)

今年は、長年言語文化学科に勤められたゾンダーマン先生が退職され、その後任として4月からフリック先生が着任されました。さて、今日は、【新任教員紹介】コーナの第3回目として、フリック先生をご紹介致します。

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<Q1> 「お名前」をお教え下さい。

Flick, Ulrich(フリック・ウルリッヒ)と言います。

<Q2> 「ご専門(あるいは担当科目)」をお教え下さい。

専門はもともと日本研究と中国研究です。学生時代は幅広い分野で様々なことをやりましたが、最終的に歴史学の方に落ち着きました。具体的に言うと、主に植民地の教育史を研究しています。こちらではコミュニケーションをメインにドイツ語の授業を担当していますが。

<Q3> 好きな食べ物は何ですか。

おいしいものが好きです。

↑フリック先生の故郷ハイデルベルクの風景

<Q4> 好きな映画を紹介してください。

これは意外と難しい質問です。好きな映画はたくさんありますが、私が評価しているところはかなりバラバラなので、「これだ」と限定するのは難しいですね。

<Q5> 最近嬉しかったことは何ですか。

先日朝6時に、鶯が家の前で一生懸命鳴いてくれたことです。

<Q6> 感銘深く読んだ本と学生に推薦したい本をお教えください。

感銘深く読んだ本はたくさんありますが、特に日本人にはミヒャエル・エンデ著作の『モモ』をお薦めしたいです。もともと青年文学として位置づけられている作品なので、大人に薦めていいのかと、違和感を覚えるかもしれませんが、内容が大変深い作品です。作品を通じて得られるものがとても多いと思います。

<Q7> 研究者(あるいは教員)を志したのは いつですか。

学者家庭出身であるのも大きな要因だと思いますが、最初に研究者になるのを志したのは幼稚園の頃です。高校卒業までそう思ってきましたが、正直にいうと、大学に入ってから、それが本当に自分にふさわしい進路なのか、本当に自分が望んでいる進路なのか、かなり迷ったこともあります。結局他の原因もあって、実際しばらくこの道から外れたこともあります。

<Q8> 学院大(生)のよいところをお教え下さい。

この質問には今の段階ではまだ答えられません。授業が始まったばかりで、まだ他の大学と比べての特徴をつかめていません。設備が大変充実していて、そういう意味で学院大はとても勉強しやすい環境になっていると思います。

<Q9> 学生時代に印象に残った先生について教えてください。

実はいい意味で印象に残った先生も、悪い意味で印象に残った先生もおります。

いい意味で印象に残った先生といえば、以前留学の時お世話になった先生のことを思い浮かべます。研究者としても、教育者としてもとても優秀で、特徴が多い方でしたが、大変印象に残ったのは先生の教え子の扱い方でした。先生はシャイな学生に人の前で話す必要がある任務を与えたり、場合によって少しいじめのようにも受け止められたかもしれませんが、よくよく考えてみると、それぞれの教え子に、本人の成長につながるような刺激を与えようとされていたことがわかります。しっかりと学生の性格を見て、人の成長を狙い、本人に最も相応しい扱い方をしようとするのはこの先生のとても素晴らしいところだと思います。

<Q10> 異文化“誤解”のエピソードがあればお教え下さい。

異文化「誤解」といえば、確かに異文化との接触の難しさがよくわかるエピソードがあります。

以前、母校にヨルダンから留学にきた軍医と知り合い、仲良くなって、ある日自宅に招かれました。多くの国では確かにそうですが、ドイツでも人のお家を訪ねる場合、とても親しい人でしたら別かもしれませんが、やっぱり手ぶらではいけないですね。ただ、アラブの文化をあまり詳しく知らなかったので、どうすればいいか、よくわかりませんでした。そこでエジプト出身の友人に聞いてみたところ、エジプトの場合にはやはりちょっとしたプレゼントを持っていくとのことでした。ちょうどその時、仲間にレバノン出身の友人がいたので、レバノンの方がヨルダンに近いということで友人の仲間にも意見を求めました。場所によって習慣が違うけれども、やはり食べ物みたいな、ちょっとしたプレゼントを用意すれば間違いないだろうとの回答でした。宗教の関係で問題になるものもあるので、結局ドイツ特産のクッキーにしました。ただ、実際に知り合いのお家を訪問し、プレゼントを渡したら、相手はそれに大変難色を示しました。そしてこんなことを語ってくれました。

「実は同じヨルダンでも場所によって習慣が違います。実際にあったことですけれども、あるベドウインの部族が違う部族を訪問した時、プレゼントを持っていけば、相手が貧乏でお客さんをもてなす能力がないという意味を持つので、何も用意せず、相手の部族ではプレゼントを用意するのは当たり前だったので、結局ケチと思われました。しばらく経って、後者の部族が前者の部族を訪れた際には、自分たちの習慣どおりたくさんのプレゼントを持って行った結果、お客さんをもてなす能力がないと相手に疑われているという印象を与えてしまいました。アラブ文化では相手が貧乏だと思うのも侮辱ですが、おもてなしを非常に大事にする文化なので、相手がケチだと思うことも侮辱に相当して、この出来事によってこの二つの部族は仲が破れました。」

そして私の知り合いもプレゼントを用意しない方の伝統を持っていました。

異文化との接触においては、普段はお互いの好意によりこのような問題は乗り越えられますが、文化背景、とりわけ習慣と伝統は深いところまで染みつくものなので、相手が悪意でやっていないことが分かっていても、どうしても関係に傷が生じたりすることもあります。私の知り合いも、私がその背景について知らなかったことははっきり分かっていましたが、この時点では空気が緊張感に満ちていました。結局私がプレゼントをあげたいのではなく、自分の国のものを紹介したいということにしたら、ようやく私の知り合いもそれに納得してくれ、緊張感が一気にほぐれ、一緒にとても楽しい時間を過ごすことができました。

<Q11> 赴任以来、「なんでやねん」と思わずツッコんでしまった出来事はありますか。

不思議に思ったことも、違和感を覚えたこともいろいろありますが、その中にはご質問にふさわしいエピソードは多分ないと思います。

<Q12> 五月病に悩む学生へ一言、「こうしてごらん」。

ドイツには五月病がないので、ドイツへの留学をお勧めします。

【学生からも一言】

フリック先生はドイツ、ヨーロッパの歴史、文化はもちろん日本の文化にまでも造詣の深い大変博識な先生であり、また、研究室に質問に行った時も丁寧にアドバイスをくださるのでとても良い先生です。

言語文化学科3年生後藤健太郎さん

【新任教員紹介2】原貴子先生(日本文学・文化)

今年、言語文化学科では4人の新しい先生をお迎えしました。前回の文景楠先生(哲学)に続き、今日は日本文学・文化を担当なさる原貴子先生をご紹介致します。

<Q1> 「お名前」をお教え下さい。

原貴子(はら・たかこ)です。

<Q2> 「ご専門(あるいは担当科目)」をお教え下さい。

日本近代文学を専門にしています。

<Q3> 最近嬉しかったことは何ですか。

上野動物園でコビトカバを見たことです。コビトカバののんびり、おっとりしている様子を見て、和みました。

<Q4> 感銘深く読んだ本と学生に推薦したい本をお教えください。

感銘深く読んだ本は、樋口一葉の小説「にごりえ」でしょうか。初めて読んだとき、鳥肌が立ちました。また、何度読んでも、迫力のある描写に引き込まれます。学生さんに推薦したい本は、小澤征爾の『ボクの音楽武者修行』です。読むと、元気が出ます。

<Q5> 研究者(あるいは教員)を志したのは いつですか。

大学生のときに、文学作品を対象に調べたり考えたりしたことを文章化するということが、苦しいけれども面白いと感じました。こうしたことをやり続けたいとは思っていたのですが、研究者になろうとはっきり志したことは、ないかもしれません。たまたま今、そのようなかたちになっていますが、どのようなかたちであれ、文学作品についての考えを自分の言葉で綴るということは続けたいと思っていました。

<Q6> 学院大(生)のよいところをお教え下さい。

まだ赴任して1ヶ月ぐらいしか経っていないので、学生さんのことをきちんと見ることができているわけではないのですが、生き生きしていて品がいい印象を受けました。

<Q7> 学生時代に印象に残った先生について教えてください。

お一人だけ挙げるとしたら、国文学科にいらっしゃった神父様でしょうか。神父様は、制度にとらわれず、ときどきは自らを省みながらも自由に過ごしてよいことを教えてくださったように思います。

<Q8> 赴任以来、「なんでやねん」と思わずツッコんでしまった出来事はありますか。

大学に直接関わることではありませんが、仙台に住んでみて一番驚いたことは、あまりにも風が強いということです。

<Q9> 五月病に悩む学生へ一言、「こうしてごらん」。

体が、休んでほしいというサインを送ってきているのだと思います。ですので、元気にならなければとか、頑張らなければとか思ったりせずに、とにかく、そのときの自分に無理しなくてもできることだけをしてみるというのはどうでしょうか。

【学生からも一言】 

原先生の私の印象は、和やかな雰囲気あふれる先生です。初対面の時からずっとその印象は変わりません。二年生の冬、ゼミの希望書類をそろそろ出さなくてはいけない頃に、新しく日本文学を担当される先生のもとへ説明を聞きに行きました。もともと前任の日本文学の先生のゼミに入るつもりだった私は、先生が代わると聞いて、日本文学の道に進むつもりはありませんでした。しかし、原先生のお話しを伺い、その気持ちは一転しました。日本文学の先生はもっとかっちりしている、性格のお堅い先生を勝手に想像していたのですが、そんな私の想像とは全く逆で、先生は話しやすい優しい空気をもっています。初めてお会いしてから今までも、たぶんこれからもそのイメージは変わらないと思います。今までも、とはいってもゼミが始まってまだ1ヵ月しか経っていませんが、これから原先生から学ぶことがたくさんあると思うので、よろしくお願いします!

(言語文化学科3年 母里真奈美)

【新任教員紹介1】文景楠先生、ようこそ言語文化学科へ!

今年、言語文化学科では4人の新しい先生をお迎えしました。まず、哲学を担当なさる文景楠先生をご紹介致します。

<Q1> 「お名前」をお教え下さい。

ややこしいかもしれませんが、いくつか書き方があります。漢字だと「文 景楠」、カタカナだと「ムン キョンナミ」、ハングルだと「문 경남」、ついでにアルファベットで書くと「Moon Kyungnam」になります。それぞれ与える感じも、連想させる音も微妙に違いますね。自分としては、どちらかというと漢字表記が一番しっくりきます。

<Q2> 「ご専門(あるいは担当科目)」をお教え下さい。

ギリシア哲学、その中でも特にアリストテレスを専門にしていますが、学院では哲学系の科目を幅広く担当していく予定です。国際交流や語学教育にも関心があり、以前は英語の先生も少ししていました。残念ながら韓国語を教えた経験はありませんが、会話の練習がしたい人は歓迎します。

<Q3> 好きな食べ物は何ですか。

全般的に何でもよく食べます。幼少の頃から海外経験があるせいか、食べ慣れたこれがないと元気がでない、といったことはほとんどないです。例えば、アメリカに少し住んでいたときはずっとサンドイッチばかりだったような気がしますが、割と平気でしたね。

<Q4> 好きな映画を紹介してください。

観て、楽しんで、振り返ったらけろっと忘れるほうなので…

<Q5> 最近嬉しかったことは何ですか。

もちろん長すぎた学生生活に終止符を打てたことです。後は、仙台の街が自分が想像していたよりもずっと住みやすかったことでしょうか。

<Q6> 感銘深く読んだ本と学生に推薦したい本をお教えください。

自分にとって本を読むのは完全に仕事なので、確率的に「感銘を受ける」ことはどんどん減ってきています。以前感銘深く読んだ本も、今目を通したら全然違う感想を抱くかもしれません。人との出会いもそうですが、本もその出会いが生じた文脈によって印象ががらっと変わります。そういう意味では、人に勧められることよりも、本との偶然の出会いをたくさんもって欲しいですね。先生たちが授業中に(往々にして授業の中身と関係なく)ぽろっと出した題名とか、ネットで偶然読んだ書評とか、そういうものを頼りに書店と図書館をさまよってください。

<Q7> 研究者(あるいは教員)を志したのは いつですか。

僕は割と早い時期から研究者になることをぼんやりと望んでいて、一応そのつもりで人生計画を練ってきました。ただし、途中で何度も挫折しそうになった場面があって、結果的には立ち直ってなんとか研究者になれたわけですが、これに関してはもはや成り行きや僥倖としかいえないような部分があります。そのほとんどが自分の力ではどうにもならないもので、とにかく人に頼りました。
ちなみに、今は「研究者」だけでなく「教員」でもあるということを強く意識しています。ついでに「社会人」であるということも忘れないようにしないと…他にも、「外国人」とか、「東北の人」とか、意識しなければならないことが歳をとるにつれてどんどん増えてる気がします。

<Q8> 学院大(生)のよいところをお教え下さい。

まだ着任して一ヶ月ぐらいしか経ってないので、この質問に答えるのはさすがに難しいですね。また、学院大か学院大生かで質問の理解も答えの中身もだいぶ変わってくると思います。とりあえず後者に関しては、(教科書的で恐縮ですが)まとめすぎず個々人の良さを見ていくことが大事ではないでしょうか。

<Q9> 学生時代に印象に残った先生について教えてください。

大学(院)生活全般を通して強く印象に残っているのは、やはり苦楽をともにしていただいた論文の指導教員です。学院大生の皆様も卒業論文で先生方と密につきあう時期がいつか必ず訪れると思いますが、さらに大学院に進学した場合は、それが長くは10年以上続くことになります。僕の最初の指導教員は、修士課程が終わる頃に病気で亡くなってしまいました。その後同じ学科にいらした別の先生に運良く受け入れていただいたわけですが、どちらの先生からも同じぐらい大きな影響を受けたと思っています。お二人の性格はかなり違ってますが、共通していたのは、議論を心から楽しんでいたという点でした。ついでに、どちらの先生も自分の主義主張を学生に押しつけるということがまったくなく、でもこちらが何か考えをもっていくととても真剣に相手をしてくれました。自分も学院大の学生たちにとってそういう先生になりたいと思ってます。

<Q10> 異文化“誤解”のエピソードがあればお教え下さい。

多文化生活が基本となってしまった僕の場合、もはや自文化がなんだったのかがかなり怪しくなっています。自文化と異文化の区別が曖昧なので、おやと思うことがあっても、これが異文化”誤解なのかがわかりません。個人的には完全に開き直っていて、どこにいっても旅行してるみたいでそれなりに楽しくてよかったと思ってます。裏を返せば、どこにいっても不慣れでおどおどしてるということになるかもしれませんが。

<Q11> 赴任以来、「なんでやねん」と思わずツッコんでしまった出来事はありますか。

ツッコみかどうかはわかりませんが、在籍している人のほとんど全員が東北六県の出身だということにかなり驚きました。でも今は、これはむしろ(本当は地方出身者であるにも関わらず)往来の激しい首都圏生活に慣れすぎてしまった自分にツッコむべきところなのかもしれないと思い始めてます。少なくとも当分の間は、学院大生に対して外に出てみたいという意欲をかき立てるような「異質分子」でいたいですね。

<Q12> 五月病に悩む学生へ一言、「こうしてごらん」。

まず、本当につらい場合は五月病どころで済む話ではない可能性があります。症状によってはきちんとした治療を受ける必要があるので、(なかなか難しいですが)SOSサインを出せるような心構えをしておいてください。
後はなんでしょうか…自分にとっての悩みの解決といえる状態が、具体的にどのようなものかをゆっくり考えてみるのがよいかもしれません。絵に描いたような模範的な学生になりたいのか(これはこれで立派なことです)、それとも、色々迷ったりするけどなんとか居場所を保てていればよしとするか。こんな感じでちょっとばかり距離をおいて考えたら、少なくとも過度に焦ったり自分を責めたりする気持ちは和らぐかもしれませんね。

最後に一言。

ここまで読んでくださった方は、「なかなか素直に質問に答えない先生だな!」という印象を受けられたと思います(笑)。それでいいんじゃないでしょうか。もちろんやりとりの基本は問いに誠実に答えることですが、学生の皆様には是非とも「この質問は特定の答えを誘導してるんじゃないか」とか「この質問はこういうことを前提にしてるけど、その前提は受け入れられない」といったことに思いをめぐらせて欲しいです(試験問題に対してあまりこれをやられるとつらいですが)。

【 学生からも一言 】

(教養学部言語文化学科 TKさん)
最初の印象はとても日本語がうまいなと思いました。(冗談です)
とても真面目な先生です。しかし、真面目だからと言ってつまらないわけではなくとてもお話が面白かったり、構成がうまいなと思うところもあり、楽しく授業を受けさせてもらってます。

(法学部法律学科 SAさん)
最初に文先生の授業を受けたとき、「丁寧だ!」とびっくりしました。大学の授業は高校までの先生と違い、不親切で、教えるのが下手と聞いていたので真逆の対応に驚きました。文先生は自身が研究者としての自覚の他、教員としての自覚も持ってて、授業に学生が興味を持てるような小ネタを挟んでくれます。
また専門がギリシア哲学なので、哲学の基礎といえる学問についての質問にもしっかり答えてくれます。
それに哲学者らしい素直ではない言い回しが面白いです!

【コラム2】外国語(英語)学習法:私の学生時代(秋葉勉先生)

 スクーリングや入学式、新入生オリエンテーションなどでしばらく休んでいた【コラム】欄を再開させていただきます。今回は、秋葉勉先生による英語学習法について聞いてみましょう。

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外国語(英語)学習法:私の学生時代

Effective Ways of Learning English: Looking Back on My School Days

教養学部言語文化学科 教授  秋葉 勉

 ITを利用した教材の充実によって、語学を学ぶ環境は、現在は昔に比べはるかに整っています。留学することも珍しいことではなくなり、多くの学生が留学する時代になりました。しかし、そんな時代でも英語をマスターしている人は極めて少ないのが実情です。
 外国語の効果的な勉強法として、語学の天才と言われている「シュリーマンの方法」がよく紹介されます。私も学生時代にその方法を実践しました。トロイアの遺跡は作り話(虚構)であると考えられていた時代に、彼は子供の頃に伝説のトロイア遺跡について書物で読み、それが実在すると信じ、それを発掘するために18か国語を短期間でマスターしました。その方法は(1)音読する(2)翻訳しない(3)毎日1時間の勉強(4)日記、あるいは興味あることについて作文(5)母国語話者に間違いを修正してもらい、その間違いを復習(6)教会に通う、などの方法です。
 私が大学に入ったのは、やっとカセット・テープレコーダーが売り出された頃です。留学するお金がなかったので、私が取った方法は、日本にいて留学するのと「同じ環境を作ること」でした。ESS(英会話サークル)に入り、NHKラジオの「英会話」のテキストを利用して毎日お昼時間、サークル仲間と英語で話しをしていました。空き時間には、ネイティブの先生の授業を聴講していました。教会の無料英会話教室に通ったり、外国人の先生の自宅で週に一度英語で話をしたりしていました。その他に、一人でイソップ物語、ギリシャ・ローマ神話、小説、民話、そして聖書を英語で読みました。毎日が英語中心の生活でした。
 語学の学習方法は多様にありますが、一番大切なのは「大きな目標」を持つことです。英語(外国語)をマスターすることが、自分の人生でどうプラスになるのかを真剣に考えてみることです。強い動機付けが語学習得には重要なのです。今度はあなたたちが「英語オタク」になるときです。

 

【コラム1】「福島弁と韓国語」ー松谷基和先生ー

これから言語文化学科の先生によるコラムの連載をスタートすることになりました。言語と文化についての貴重なお話しをお届けしたいと思います。第1弾としては、韓国・朝鮮語を教えている松谷先生から「福島弁と韓国語」という原稿をいただきましたので、どうぞお聞きください。

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今からもう20数年前のことである。私は韓国の延世大学に交換留学生として1年間留学した。当時は韓流ブーム以前の時代であり、韓国に対する世間の関心は薄く、韓国に留学する学生も少なかった。ましてや、私の通っていた国際基督教大学(ICU)は英語教育が評判なこともあって人気の留学先は欧米であり、韓国を選ぶ学生は「変わり者」であった。また、韓国に留学する場合でも、現地では英語による科目履修が想定されており、韓国語の能力は選考基準に含まれていなかった。そもそも、当時は、ICUのカリキュラムに韓国語の科目は存在せず、留学前に韓国語を学ぼうにも大学では学ぶ機会すらなかったのである。

当時の私は、こうした英語さえできれば、英語圏でなくても留学できるという制度が英語中心主義の象徴のように思われ、現地語を学ばないまま留学することに抵抗を感じた。幸いなことにICUからそう遠くない所に「アジア・アフリカ語学院」という語学の専門学校があったため、そこに通うことで、私は初めて韓国語の学習の機会を得たのであるが、今日では第二外国語で韓国語を学べる大学が多数であり、まさに隔世の感がある。

ところで、私が当時、反発を覚えていたのは、実は英語中心主義ではなく、日本語の標準語中心主義であった。私は福島市で生まれ育ち、祖父母との会話量も多かったせいか、同世代の人間の中でも福島弁が得意な方であった。しかし、当時、東京の大学に進学する地元の高校生は、上京する前から福島弁を矯正するのが常であり、福島弁は都会では隠すべきものと考えられていた。私は標準語を習得しようとする人々の努力を全否定するつもりはなかったが、その理由が福島弁を話す奴は田舎臭くて「みったぐねえ(みっともない)」という自虐的な価値観にあることを知っており、そうした価値判断をする奴こそ「みったぐねえ」と反発心を燃やしていた。実際、私は大学進学後、キャンパスで見かけた「大九州言語会」という九州出身者による「方言飲み会」の存在に刺激されたこともあり、岩沼出身の友人と「奥州連合」なる看板を掲げて、東北人同士の「方言飲み会」の立ち上げ者となった。

こうした私の「母語」である福島弁へのこだわりは、その後、意外な形で私の韓国語習得を助けることになった。というのも、韓国語(正確には「ソウル標準語」)では、一般的に単語や文章にはアクセントや抑揚をつけずに平らに(フラットに)読むことが求められるのであるが、これが福島弁に似ており、何ら違和感を覚えなかったのである。

実際、これは言語学的にも裏付けられるようである。というのも、福島に限らず南東北(仙台も含む)は、言語学的分類調査によれば、いわゆる「無アクセント地帯」に属し、その特徴は、文字通り、単語にアクセントをつけず、抑揚のない平板型のイントネーションで話すこととされる。つまり、韓国語も南東北の方言もイントネーションの基礎が共通なのである。

それに加えて、私の観察では、「あつい」を「あづい」、「なめこ」を「なめご」、「かたち」を「かだぢ」と発音するように、二音節目以降の子音を濁音化させて発音する福島弁(南東北弁一般もそうであろう)のパターンも韓国語と同様である。例えば、韓国語の「行く」という単語はスペル上では「カタ」であるが、実際には「カダ」と二音節目の子音は濁音化させて発音するのである。要は「平板型アクセント」+「子音の濁音化」という発音上の規則が、二つとも韓国語と福島弁に共通しているのである。

私が留学して間もない頃、ある韓国語の先生から「私は長年、日本語母語者に韓国語を教えていますが、松谷さんは日本語母語者が苦手とするアクセントやイントネーションにほとんど問題を感じていないようですね。どうして、松谷さんだけ、そうなのか私には不思議です」と言われたことがある。その時は自分でもあまり意識しなかったのだが、後年、私と同様に福島弁の使い手である妹が韓国に留学した際にも、全く同じことを言われたという話を聞き、やはり、これは偶然ではなく、韓国語と福島弁の間には言語学的共通性があるためではないかとの思いが強まった。おそらく読者の中にも、韓国語を聞きながら何となく濁音が多く、どこか東北弁と近いと感じたり、逆に韓国人の話す日本語が何となく東北人の訛りのように聞こえたりした経験がおありではないだろうか?ぜひとも、本学で韓国語ないし言語学に興味を持つ学生には、このテーマについて本格的に探求して欲しいものである。

さて、近年、東北に限らず、どの地域でも日常生活から方言が失われ、イントネーションも標準化されつつあると聞く。私の思いとは別に、世の中は、益々、内には日本語中心主義、外には英語中心主義に流れていき、日本語と英語ができることが「バイリンガル」と称賛される風潮も強まって行くのであろう。しかし、私が思うに、方言と日本語を話せれば、これは立派な「バイリンガル」である。そして、こうしたバイリンガル感覚の持つ人の方が、実は他言語/多言語を学ぶ上で有利な面もあり得るのである。方言に囲まれて育ち、今でも多少は方言を操れる学生諸君に伝えたい。「君、方言を捨てたもうことなかれ」と。

第一回映画講座『雨月物語』(金永昊先生解説)が終わりました

去る9月29日(木)は泉キャンパス図書館の2階視聴覚室にて、言語文化学科の金永昊(キムヨンホ)先生の解説による後期第一回目の映画講座が行われました。今回の作品は、溝口健二監督の『雨月物語』(1953)でした。学内外の諸行事と重なり、多くの方が参加することは出来ませんでしたが、その分、一人一人と深いところまで話し合うことが出来ました。参加出来なかった方々のために、一部の模様をお伝えします。

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まず、映画上映前の約20分間は、上田秋成と『雨月物語』、そして溝口健二監督と映画『雨月物語』についての基本的な説明、そして映画のどのような点に注目して見ていただきたいかについての説明がありました。

●映画鑑賞前の解説

1.小説『雨月物語』は9編の怪談から構成され、全体を貫くテーマは「執着」「欲望」である(長島弘明、2016)。その内容は、権力・金銭・女性・男性など様々で、秋成はそれを通して「人間とは何か」を追求している。溝口は、『雨月物語』のうち、「浅茅が宿」「蛇性の婬」を下敷きとして「執着」「欲望」というテーマを忠実に受け継ぎながら、男性の「執着」「欲望」により犠牲になる女性を描いている。このように女性への眼差しは溝口監督映画のテーマであるが、それでは、『雨月物語』の中で男性は何に執着し、女性はどのような形で犠牲になるのかを注目して見ていただきたい。映画が原作の小説をそのまま忠実に再現しただけなら、高い評価は得られないようである。例えば、黒澤明の『羅生門』は芥川龍之介の原作から著しく離れているが、小説の中で語り得なかった(あるいは語るつもりのなかった、当然過ぎて語る必要のなかった)ことについての解釈、あるいは解決を映画の中で示したからこそ、原作と並んで日本映画史に残る傑作になったのである。それでは、溝口は原作についてどのような解釈を下しているのかもこれからの説明を聞きながら考えていただきたい。

2.『雨月物語』「浅茅が宿」は、中国明代の『剪灯新話』(1421)所収の「愛卿伝」、そして浅井了意の『伽婢子』(1666)所収の「遊女宮木野」などを原作としている。映画『雨月物語』の「宮木」は「浅茅が宿」の主人公宮木から由来したものであるが、これは「遊女宮木野」の「宮木野」からヒントを得たものである。

3.原作「浅茅が宿」で勝四郎は、生業の農作を嫌がっていた者で、貧しくなったため、残る田まで売って一攫千金の絹の商いをするべく京へ向かう。ここで問題になるのは、勝四郎が「残る田まで売って」京都に向かうという原作の設定は、故郷に残る宮木の生活が全く考慮されていない。『雨月物語』は全体を通して男の視点・男の論理で語りが進められているため、宮木の生活の苦しさなどは思慮の範疇になかったと思われ、具体的に書く必要もなかったと思われる。また、どうして勝四郎は宮木を連れて行こうとしなかったのか、についても疑問が残る。それでは、溝口はこの部分をどのように解釈したのか。注意して見ていただきたい。

4.原作「浅茅が宿」で、勝四郎は京で絹の商いで大金を稼ぐ。しかし、帰国の途中、稼いだ金を奪われる。そして、関東の戦乱を聞いて、妻は死んだものと思い込み、また京の方面へ戻る。この部分は「浅茅が宿」を解釈するうえで最大の問題点の一つである。つまり、①勝四郎は何を根拠として、妻は死んだものと思い込んだのか、②早く故郷に帰らずにどうしてまた京の方面へ戻ったのか、③京都で過ごした7年間という時間は長過ぎる、という点である。それについても「浅茅が宿」では具体的な答えが提示されていない。あまりにも当然過ぎるからであろうか、それならどうして当然なのか。お金を奪われた時、妻は死んだものと思い込んだのは、「大金を稼いで来るぞ」と大口を叩いた勝四郎の男としてのプライドにより、無意識のうちにそういうふうに考えるようになったのかもしれない。そして、もう一度、お金を稼ぐため、再び京都に向い、7年間も戻って来なかったのであろう。このような原作の問題について、溝口は映画の中で実に見事な解釈を下す。つまり、「男は女性に会ったのだ」「女性の捕らわれたのだと解釈するしかない」「しかも、その女性は亡霊である」と。そして映画『雨月物語』は「蛇性の婬」の世界を取り入れながら拡大されていく。

5.原作「浅茅が宿」では、勝四郎の帰郷後、宮木の死について語る翁が登場する。この場面は、一見あまり特徴のないように見えるかもしれないが、実はとても重要な意味が込められている。その場面についても注目して見ていただきたい。

 ●映画鑑賞後の話し合い

<金先生>源十郎は亡霊の「若狭の姫」と恋に落ちるが、「若狭」は今の福井県である。その他に、「若狭」は「若さ」をかけた言葉で、名前自体に「若狭の姫」が人間ではないことをほのめかしている。また、若狭の姫が住む「朽木屋敷」も「木」が「朽ち果てている」、つまり怪異を予兆する仕掛けが込められている。そして、「浅茅が宿」での「絹」の商売、映画で焼き物を売り「絹」を買う源十郎、更に映画の主人公は田中「絹」代であることで、「絹」がキーワードとして利用されて(?)いるが、これは偶然の一致であろうか(笑)。

<金先生>どの場面が最も印象深かったですか。

<学生1>源十郎が出稼ぎに行ってお金を儲けた時、その服を妻宮木に着せてあげることを想像する場面です。

1

<金先生>確かにその場面は大変興味深くて、面白い場面である。その直前に源十郎は若狭の姫の顔を見て、その美しさに驚くのだが、その後、源十郎は服を妻宮木に着せてあげることを想像するので、その時点までは源十郎は妻宮木のことを考えていたのである。それでは、「いつ」そして「なぜ」源十郎が若狭の姫に心を奪われたのであろうか。それは、朽木の屋敷で、若狭の姫が源十郎の外見や人間性について褒めたからではない。源十郎が作った焼き物の素晴らしさ、そこにある芸術性について褒め讃えた時、源十郎は心を奪われたのである。それまでは金のために、豊かな生活のために仕事をして来た源十郎にとって、源十郎の能力について褒めた若狭の姫のこの言葉はまさに天才的な誘惑術である。

2

<金先生>その他にどの場面が最も印象深かったですか。

<学生2>琵琶湖で舟を漕ぐシーンです。

3

<金先生>琵琶湖を進む舟の幻想的な描写は、映像論としてすでに多くの賛美があり、日本映画史においても、浜辺での宴会の場面と共に、名場面として高く評価されている。琵琶湖を進む舟で宮木は「よかった、よかった。陸で行けば今頃命はなかった」とほっとするが、これは言うまでもなく、後で陸地に残される宮木の死を暗示する伏線である。因みに、浜辺での宴会の場面で、源十郎は「魔性の女でも構わない」と言う。この時、源十郎はすでに若狭の姫が人間ではないことを気付いているが、それを無意識のうちに拒否している。つまり、正常に判断する能力を失っている状態である。また、宴会の時、「ここが天国だ」と言う場面のすぐ後に、宮木が敵兵によって殺される場面が続くのだが、源十郎が経験している「天国」のような生活は宮木の「地獄」のような生活の代わりに得たものである。

<金先生>一番最初の質問として出した、どのような男性の執着、女性の犠牲が描かれていますか。

<学生3>金銭に対する源十郎の執着、そして権力に対する藤兵衛の執着が描かれ、それぞれの妻が死んだり、遊女になったりします。

●映画を見る前に出した課題に関する解説

①金先生が考えた印象深かった場面とは

4

私は妻子を残して、夫婦が別れる場面を選びたい。この場面は、まさに溝口の天才的な力量・直観の鋭さが存分に表現されていると思ったからである。この部分について、原作の「浅茅が宿」のほうを見てみると、勝四郎は「いかで浮木に乗りつもしらぬ国に長居せん。葛のうら葉のかへるは此秋なるべし。心づよく待ち給へ」と言う。ここで、葛は秋の七草の一であり、秋の季語である、そして葛の葉が風によく翻るところから秋の季節感を表す表現で、「葛の葉が風に裏返るこの秋には、きっと帰って来る」の意として、解釈して何のおかしくないところである。しかし、この文章の和歌・俳諧的技法を見ると、「裏返る→恨み・裏切る」を象徴し、その他にも「葛→屑」「帰る→心が翻る」など、この文章の表には「戻って来る」と言いながら、そこに隠された修辞としては「宮木はウラ切られる」「宮木はウラみを残す」「固い約束はクズになる」「夫の心はカエる」に繋がることから、「宮木の死と勝四郎は戻って来ない」ことが伏線として暗示されている。そして、溝口は言外に含まれた内容まで実に見事なまでに再現していたのである。

映画の方を見ると、「10日もかからない」「我慢しろ」「気を付けてくださいよ」などと言う会話及び状況は、どこを見ても「源十郎は戻って来ない」「宮木は死ぬ」とは言っていない。しかし、先に説明したように①「陸で行けば今頃命はなかった」とほっとするが宮木の言葉は、宮木の死を暗示する伏線であり、②夫を送り出す宮木の表情、③映画全体を通してほとんどセリフもなく、無表情の息子源市がこの時だけは大きな声で無事に帰って来るよう叫ぶこと、しかも長い時間をかけて(長回し)表現されている、④背景音楽としては太鼓を叩くことによって、映画を見る人を緊張させること、⑤宮木と息子に対する長回し・トラッキングの撮影技法、を通して、映画を見ている人を不安に思わせ、「源十郎は戻って来ないだろう」と思わせている。つまり、溝口は、会話と状況としてはどこにも「源十郎は戻って来ない」とは言っていないが、映画全体の撮影技法を駆使して、見ている人が「源十郎は戻って来ない」ことを予感させ、見事に秋成の意図を見破って表現させたのである。

それでは、溝口は「浅茅が宿」で「葛のうら葉…」の文章の本当の意味が分かったため、映像として忠実に表現出来たのであろうか。【資料7】で挙げた鵜月洋『雨月物語評釈』(角川書店、1969)を見ると、『玉葉集』の和歌の用例「秋風と契りし人はかへり来ず葛のうら葉の霜がるるまで」を紹介しており、「秋風」「契る」「葛のうら葉」の単語が「帰って来ない」和歌として利用されていることを挙げてはいるものの、それが「浅茅が宿」の解釈にまでは至っていない。実は、この部分の本当の意味は、高田衛(1972)、木越治(1995)、金京姫(2006)によって少しずつ解明されたもので、溝口が映画を作った1950年代の『雨月物語』の研究レベルとしては、秋成の本当の意図が絶対分かるはずのないところである。それでは、溝口はどうして「葛のうら葉…」に込められた秋成の真意まで見破って表現出来たのであろうか。それは、まさに天才としか言いようのない、溝口の映画監督としての「直観」ではないかと思われる。

②女性像の変化

中国の原作は、ご紹介したあらすじから分かるように、「貞節を守る女性」が理想的な女性として内容の中心になっている。とても明代の中国的な発想であろう。それが、秋成の「浅茅が宿」では、「真間の手児奈と比べても宮木の哀切は深いものである」と褒め称えられる。ここで登場する「真間の手児奈」は『万葉集』を代表する処女で、秋成はここで国学者としての自分の知識を何とか生かしたかったのではないかと言われている。それでは、溝口が描いた宮木像はどういうものであろうか。中国の原作や秋成の『雨月物語』では亡霊と一夜を過ごす、つまり夫婦関係が持たれたことを暗示させるような表現がある。しかし、映画を見ると、①源十郎はお酒に酔って子供の横に寝るため夫婦関係が持たれたことは想定出来ない、②宮木は源十郎に布団をかけてあげ、源十郎のくつを整理する、③源十郎の食事を用意し、「お鍋も食べごろに煮えております」と話す、④子供の食べ物を守るため敵兵に殺される、などの状況から「母」としての宮木像が描かれている。ここで話は変るが、先に提示した質問、つまり、原作で勝四郎はどうして宮木を連れて行かなかったのかという疑問に対する答えとして、溝口は原作にはない子供源市を設定することによって、①子供がいるから宮木は故郷に残らなければならないという必然的な理由を設定することによって解決し、そして②母としての宮木像を見事に描くことが出来たと思われる。

③宮木の死について語る翁

この部分が中国の「愛卿伝」から始め、日本の古典では『伽婢子』の「遊女宮木野」、『雨月物語』の「浅茅が宿」に続き、映画『雨月物語』にも受け継がれている理由はなぜであろうか。各作者はどうしてこの部分に共感して表現したのであろうか。今、紹介しているパンフレット(「連続講座 震災と文学」)を見ると、東雅夫先生がうちの大学に来られ、「震災と怪談の文学史」というテーマで講演会を行ったが、その中で、震災の後、生き残った方々が亡くなった方々について語り合うこと、それが亡くなった方々の魂を慰める鎮魂・慰霊である、との趣旨の話をしたことを記憶している。その話を聞いた時、私は映画『雨月物語』、そしてその先行作品のことを思い出した。これについて、資料から分かるように、澤田瑞穂氏は『中国の伝承と説話』という本で、『剪灯余話』「連理樹記」の例を挙げながら次のように述べている。

至純の夫婦愛もしくは未遂の悲恋に殉じた男女の墓に連理樹が生じ、その樹に鴛鴦が棲むというのは、いわゆる植物化生や動物由来の民間伝承に根を持つばかりでなく、またそれを語り伝える無名の人々が、その悲運の男女に捧げるせめてもの鎮魂の供物でもあった。そうした眼前の樹木や動物に対して、その化生を証言し、しみじみと追懐することこそ、死せるものの遺恨を慰める途であると信じたがために、民間伝承の殉情悲恋物語には、その結末は決まってこのモチーフが持ち出され、少しでも受難の惨酷さを緩和し美化しようとする。いわゆる吐瀉の後の一服であり、人生の悲運に対する補償でもある。それは説話伝承の文学的技巧というだけでなく、実は冤魂鎮定の呪術としての説話の民俗的機能をも無意識のうちに継承しているのである。

5

このような澤田氏の見解は、映画『雨月物語』を理解するうえで傾聴に値する重要な話である。つまり、映画『雨月物語』では、悲劇的な人生を生きた宮木に対して、「死せるものの遺恨を慰める」と同時に、「少しでも受難の惨酷さを緩和し美化」するために、宮木の死を伝える翁が登場し、塚の前で祈りを捧げる息子の姿を登場させたのである。そうすることによって、宮木の魂は救われたのであり、これはまさに理屈では説明出来ないものの我々が「説話の民俗的機能」として「無意識のうちに継承して」来たものである。

<これからの課題について>

映画には原作にはない人物として、息子の源市が登場する。セリフはあまりなく、ほとんど無表情で登場するが、母としての宮木像の形成、そして源十郎が宮木を残して出稼ぎに行くしかない必然的な状況を作り出したことで、大変大きな意味があることは先に述べた。

 その他に、藤兵衛と阿浜の物語が追加されているが、これは【資料9】に挙げた佐藤忠男『溝口健二の世界』(筑摩書房、1982)の指摘通り、「甘い結末」「ひどくつまらないもの」と評価されている。しかし、果たして藤兵衛と阿浜の物語は映画『雨月物語』の中では脇役に過ぎないのか、つまらないものに過ぎないのか、いや、映画の中ではきっと重要な意味を持つかもしれない。このように映画として、或は文学作品として出されてしまうと、その解釈は作者のものではなく、読者のものになる。どのような新しい意味を与えることが出来るのであろうか。ここに集まっていただいた学生たちが、この部分について関心を持ち、卒論を書いていただければ、きっと素晴らしい卒論になれると思われる。また、まるで能面のような若狭の姫の表情、朽木の屋敷の構造、背景音楽などで能の手法がたくさん織り込まれている。どのような技法が使われ、いかなる意味を持つのであろうか、考えてみても面白いと思われる。

<参考文献>

・鵜月洋『雨月物語評釈』(角川書店、1969)

・勝倉寿一『雨月物語構想論』(教育出版センター、1977)

・木越治「くり返しの修辞学―「浅茅が宿」試論―」(『秋成論』所収、ぺりかん社、1995)

・金京姫「「吉備津の釜」試論―俳諧的連想に注目して―」(『近世文藝』第84号、2006)

・金永昊「アジア漢字文化圏の中の『伽婢子』―「遊女宮木野」の翻案の特質を中心に―」(『人間社会環境研究』18号、金沢大学大学院人間社会環境研究科紀要、2009)

・―――「『剪灯新話』「翠々伝」の影響の諸相―日本・朝鮮・ベトナムの翻案作が求めたもの―」(『中国古典小説研究』14号、中国古典小説研究会、2009)

・佐藤忠男『溝口健二の世界』(筑摩書房、1982)

・澤田瑞穂『中国の伝承と説話』(研文出版、1988)

・重友毅「雨月評論(二)「浅茅が宿」について」(『近世文学史の諸問題』所収、明治書院、1963)

・高田衛「幻語の構造―雨と月への私注―」(『別冊現代詩手帳』第1巻第3号、1972)

・田中厚一「「浅茅が宿」「蛇性の婬」から映画「雨月物語」へ」(飯倉洋一・木越治編『秋成文学の生成』所収、森話社、2008)

新任教員の松谷基和先生の紹介!

<Q1> 「お名前」をお教え下さい。

いきなり、名前を聞かれるのも不思議な感じですね。松谷基和(まつたに もとかず)です。

松谷先生1

<Q2> 「ご専門(あるいは担当科目)」をお教え下さい。

朝鮮半島の近現代史を主にやっております。特に19世紀末に朝鮮半島に入ってきたキリスト教(プロテスタント)の普及過程や、それが現地の社会や文化に与えた影響について関心を持っています。また、キリスト教や宣教師を通じた朝鮮とアメリカ、日本との人的・文化的な交流にも関心があり、最近は東北学院の初代院長である押川方義と朝鮮の関係についても調べています。

 

<Q3> 好きな食べ物は何ですか。

大学でこの種の質問を受けたのは初めてですね。私の好きな食べ物を知って喜ぶ人なんているとは思えません(笑)。私は出されたものはなんでも感謝して頂きます。

 

<Q4> 好きな映画を教えてください。

映画なら『炎のランナー』です。ミッション系の本学の学生、とりわけスポーツが好きな方にはぜひ見て欲しいですね。人は何のために走るのか、何のために競争するのか、そして競争に勝って手にした栄光には何の意味があるのか、など考えさせられる内容です。また宗教的寛容、人種差別、ナショナリズムといった今日のグローバル社会でも頻繁に論じられるテーマも随所に盛り込まれており、非常に中身の濃い映画です。

それと映画ではありませんが、1970-1980年代にNHKで放映されたアメリカのドラマ『大草原の小さな家』もいいですよ。最近、ようやく日本でも復刻版のDVDセットで発売されましたのでネットで見つけて買いました。これも、単なる家族愛の話でなく、貧富の格差、老いと病、暴力と戦争、個人と共同体といった社会的なテーマが盛り込まれており、誰が見ても自分の関心に引き付けて楽しんで見ることができます。

韓国・朝鮮の文化を担当している者としては、何か韓国映画にも言及しないとまずいですかね。数年前の映画ですが『国際市場で逢いましょう』は良かったです。激動と苦難の韓国現代史を知っている人間であれば、涙なくしては見られません。日本で紹介されるK-Popや韓流ドラマのスターたちを見ていると華やかで活力に満ちた韓国ばかりを想像しがちですが、この華やかな社会の背景には大変な苦労の歴史があります。そうした韓国社会の別の側面を知る上でも日本の韓流ファンにはぜひ見て欲しいです。

 

<Q5> 最近嬉しかったことは何ですか。

本学に赴任したことです。私は以前から東北地方にあり、かつ専門である韓国・朝鮮に関する科目を担当できる大学で働きたいと思っておりました。世の中のことであれば、アメリカの大統領選挙でサンダースが全国的に若年層から幅広い支持を集めていることです。20代、30代の若者が、70代の政治家の語る理想に共鳴して立ち上がる国には希望を感じます。

 

<Q6> 感銘深く読んだ本と学生に推薦したい本をお教えください。

いろいろありすぎて困りますね。まず、学生さんに勧めたいのは、同世代の本だけでなく、一世代二世代前の本を読むことです。そうでないと、上の世代の人と何ら共通の知識や感覚を持たなくなり、その結果、自分と同じような感覚を持つ同世代の人や年下とばかり話すことしかできず、自分の世界を広げる機会を失います。いきなり何世代も時間や空間を飛び越えた世界的な古典や名著に挑戦することはできなくとも、自分の両親や祖父母の世代に流行っていた本を読んでみるだけでも意味があると思います。つまり、時代遅れの本を読めということです。

私が学生時代(1990年代)に読んだ時代遅れの本のひとつに『人間の條件』(五味川純平著)という長編小説があります。これは1955年に出版されて以降、累積で一千万部以上売れたという超ド級の大ベストセラーです。日本が中国大陸で行った戦争の醜悪さ、戦争に動員された兵士や労働者が直面した不条理、そしてそれにより破壊されていく人間性といった重苦しい内容がテーマであり、決して楽しい本ではありません。しかし、かつては日本でもこうした重いテーマの本が、大衆小説として幅広い層の人が読んで、少なからず問題意識を共有していたことを思うと感慨深いです。昨今の日本社会には、こうした過去の記憶がまったく希薄になっているようで不安です。

 

<Q7> 研究者(あるいは教員)を志したのは いつですか。

いつと言われても難しいですね。少なくとも、学部時代の私には、大学院に進むとか研究者を目指すとかいう考えは全くありませんでした。何となく卒業し、深い考えもなく商社に就職して二年ほどサラリーマン生活を送りました。しかし、うまくなじめず飽きてしまい、会社を辞めました。辞めた後に、大学院(修士課程)の試験を受けて、韓国の政治や歴史を学び始めました。その後、アメリカの大学院に進み、勉学を続ける中で、ようやく研究が楽しいと思えるようになり、博士学位を得たことで自分も研究者としてやっていけるかなあと思い始めました。最初から明確な志があったわけではありませんが、目の前に与えられた機会を生かして自分なりに頑張っていたら自然に道が開かれたというのが正直なところです。

 

<Q8> 学院大(生)のよいところをお教え下さい。

着任一か月程度で、学院大(生)を語ることはできませんよ。もっとも、私は常に長所と短所はコインの裏表の関係だと思っておりますので、何か褒めても裏がありますよ。例えば、私が「おとなしくて素直」と褒めるようなことがあったら、その裏には「消極的で向上心が弱い」と疑って下さって結構です(笑)。

 

<Q9> 学生時代に印象に残った先生について教えてください。

これまた、いろいろおります。修士課程時代に、私が大学を辞めようと思った時に引き留めてくださった先生、アメリカでの博士課程時代に公私ともにお世話をしてくれた先生、いろんな先生の顔が浮かんできます。いずれにしても、私はそれらの先生方の学問のみならず、人格や立ち居振る舞い(いわゆる背中でものを言う)に教えられることが多かったです。もっとも私は眺めて感動するだけで、自分がそれを真似することは出来ないのですが、そうした先生方に会えただけでも大学の世界にいて良かったなと心から思います。

 

<Q10> 韓国でもアメリカでも生活の経験がおありと聞きました。異文化“誤解”のエピソードがあればお教え下さい。

学部生の時、韓国に交換留学しました。留学して間もない頃、親しい韓国人の友人の家に招かれました。そこで、友人の母親から「親元を離れて留学に来ているから、お父さんやお母さんが恋しいだろう?」と尋ねられました。私は、即座に「いや、全く恋しくなんてありません。むしろ、親元を離れて暮らした方が、自由で解放感があって楽しいですよ」と元気よく答えました。すると、その母親は血相を変えて「なんだって、そんなことを言うもんじゃないよ。親に対して恩知らずだ」と怒ったのです。日本であれば、「おお、逞しくて頼もしい若者だわねえ」と褒められたかもしれません。しかし、親子間の「孝」を重視する儒教社会の伝統が残る韓国社会においては、私のような物言いは、叱られることはあっても、褒められることはないのです。留学して日の浅い私にはこの辺りの日韓の文化の差異が見えていなかったのです。この経験から学んだ私は、その後は、この種の質問に対しては、「はい、恋しくてなりません。寝ても覚めても父上様、母上様の面影が浮かびます。志を果たして、いつの日か親元に帰り、孝行を尽くしたいと思います」と真顔で応えられる智恵と度胸が身に着きました。こうした面白い異文化体験をするためにも、韓国に留学される方は単に同世代の友人と付きあうだけでなく、友達の家族や親戚など異なる世代の人とも積極的に話して欲しいですね。

アメリカでのエピソードもいろいろありますが、省略しましょう。

 

<Q11> 赴任以来、「なんでやねん」と思わずツッコんでしまった出来事はありますか。

どうして質問が関西弁風なんですか?まずは、そこにツッコみたいです。私は福島人なので、こういう形の質問を受けると、福島弁で返したくなります。

あんだの質問は福島弁さ翻訳すっと、「学院さ来てがら、『なしてほどごどやってんの?おがしいんでね?』って思ったごと、なんかあっかい?」つうことだべ?

んだこっちゃ、ちっとおがしねって思ったことあったない。学院さ来て、最初に新入生のオリエンテーションキャンプっつうのに行ったんだげんちょ、せっかく新入生同士で泊りでキャンプさ行ったのに、友達と遊んだり、先生としゃべったりする時間はほとんどねくって、みなして床さ寝っ転がって履修計画作るのに何時間もかけてんのない。いやいや、あれは、もったいねえない。わざわざ泊りさ来たんだから、昼間がら一緒に運動したり、遊びさ行ったりしたらいいべした。それと、リーダーつう人たちが、リクルートスーツ着てんのも、なんだか「お仕事」してるっつう感じで違和感あったない。学院の学生はまじめなんだかなんだかわがんねえけど、もうちっと、楽しく学生生活スタートさせっぺで。われらーのがくいーん♪」

 

<Q12> 五月病に悩む学生へ一言、「こうしてごらん」。

五月病ですか。自分がかかった経験がないので、助言らしいことは申せません。ただ、気の病について一般的に言えることだと思いますが、病になるのは、かかった個人にのみ原因があるのではなく、その方を取り巻く社会的な環境によるところも大きいのではないかと思います。言い方を変えれば、この世の中がそもそも歪んでおり異常な面がありますから、この曲がった世界に生きていて憂鬱になったり、虚しくなったりすることは当然であり、逆にそれは正常な人間である証だと思います。この世が闇ばかりとは申しませんが、闇を感じて、光を求めて苦悩するのは、人間の人間たるゆえんだと思います。ちなみに、皆さんが入学式で頂いた聖書の中にはこんな言葉がありますよ。「神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直し得ようか。順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来については無知であるようにと神はこの両者を併せ作られらた、と」(コヘレトの言葉7:14)

松谷先生2

【学生からも一言】田中 杏奈(言語文化学科3年)

松谷先生は本当にユニークな方です。第一印象は、良い声で話す先生。

先生は、「学生がどんなことに興味があるのか」「今流行していることはなにか?」など私たち世代の出来事や考えにも関心を持っているので、とても話がしやすいです。
また、たまに熱く語ることがあるので話が長くなることもあります…。しかし、毎回「なるほど!」と思うようなことを教えて下さるので、先生といる時間はほんとに楽しいですし、先生の授業を受けることで、考えも広がります。